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道徳が、中教審によって正式な教科とは認められなかった。
正式な教科とは、
1.生徒の成績を数量化してつけることができる。
2.検定教科書を使用する
3.中学校からは専門の先生がいる
が条件らしい。(読売新聞より)
心の問題を扱う教科に、このような条件をつけて取り扱うのは
ふさわしくないという意見が強く、教科化を見送ったというのが理由だ。
学校で教えることには、心の教育は含まれていないのか。
心、というか信念、ストーリーをなくして教育をしても、
国語、数学、社会、理科、すべての教科で知識の詰め込み、
また理論の詰め込みに終始してしまうように思われる。
脱線するが、特定の理論も特定の思想、信条下でなければ成立しない。
科学主義という思想なら思想が存在するということに認識を持たずに、
理論に対して絶対的な価値を置く教育は、洗脳と全く等しいおろかさがあると、私は考える。
義務教育課程でこれが実現できないとなると、
高等教育に入ってから心、信念の教育を始めることになる。
たしかに、年端も行かない子どもに、ある特定の信条を植えつけるのは
洗脳とも捉えられかねないが、
かといって、特定の信条を持たせない。
というのも上で述べた科学主義と同じように一つの思想であることには間違いない。
また、高校生とか、大学生になると、そういう信条とか心の議論に
最初から距離をおきだす人間も増える気がする。(経験と偏見上)
この方針の下で育った子どもは(私もその一人なのかもしれないが)、
特定の信条、ストーリー、主張を持つことに、潜在的に違和感を覚えるようになってしまうのではないのだろうか。
ダーウィンの進化論を義務教育で教える、教えないが問題になっているアメリカを
おろかだなと、一瞬思ってしまう自分に、既にそのような信条、主張に極端に
距離を置くという思想が刷り込まれていることをしって、少し空寒くもなる。
話はかなり飛躍するが、国際的な関係においては(というかそもそも人間関係においては)
ロジックで成り立つ部分は極めて少ない。
論理を無視した主張とそれを認めさせる感情的な説得の巧拙で動く社会の中で、
この論理、科学一辺倒の教育を受けた人間はどう勝負していくのか。
ふつーはどっかで人と関わってく中で
こんなことを悟ったり、暗黙のうちに学んだりするものかもしれないが、
私のようにあんまりそういうことに疎かったりする人もまあまあいるような気もする。
(今の子は「空気嫁の時代」に生きているので、その辺には私の年代より敏感なのかもしれない。)
どちらにせよ、このままいくと、アホの大量生産につながるなと思っている。
なんとかしなければいけない。
という憂国談義じみた話は、僕は嫌いです。
就活生見てて思うのは、
やばいことになってる人が多すぎる。
自分がその年の頃のことを考えると、同じ大学の後輩に求めるのは
間違っているかも知れないけど、
ただ、そうやって一つの基準(効率、etc...)で切っているうちは、まだまだモダンな
アメリカンな世界でしか生きられていないんだな、知らぬ間にその世界に絡め取られて
閉じ込められちゃってるなーって思う。
理想として、みんながそれぞれのチカラを出せて…みたいな考え方も、もちろんあるし、
目的(自分が理想とする社会)を達成するために、その人と自分との関係を考えながら構築するっていう手もあるし
(あ、これが結構ベターなのかな)
とにかく、
「こっから先」を考えてかないと。 こんなレベルで自分がデキルとか思ってたら、本当にカスだからな。
だから、自分が理想とする社会についての案をもっと出していくし、
自分の人生のうちでドコまでその理想に近づくか、最大限近づける道を探っていかなくては。
人と人との関係も、それ自体、お互い楽しみつつってのを(どう楽しむかというのも難しい問題ではあるが)
基礎にしながら、
自分の理想的な世界を実現するためにどうしたら良いのかってことを真剣に考えよう。
もちろん、その理想世界は、自分の人間的な弱さ(寂しがり)とかも入れ込んで、
それを繰り込みつつの、世の中作りってことで、
甘いかもしれないけど、「身捨つる程の祖国はありや」と問われれば、まだそれに当てはまるような
絶対的な対象は見つかってないし、自分が壊れたらどうしようもないから。
さて、どうやって革命を起こしていこうか。
なんだが、今の20代はやっぱり心理と社会の時代に育ってきたんだなーと常々思う。
だから証券会社の人なんかが血迷ってマーケ面白そうとか思ってジョブチェンジしちゃうわけだし。
自分もマーケがしっくりきちゃうしね。
その前が経済の時代だとして、だから会社に入ったらオッサンたちの論理で日経読め、経済勉強しろになっちゃうんだよね。
ビジネス上必要なのはわかるけどさ。
MBAが思想的に何の価値も無いことはさっさと認めたほうが良い。(あ、誰も思想的に価値があるなんていってないよな)
じゃぁ平成キッズたちは何の時代に育ってんだろ?
情報とアバンダンスの世界なのかな?
そうやって共通の世界観が変わるときに社会は、人間はどう変わるんだろう?
見田センセイが『現代社会の理論』の終章であたらしい資本主義(この名前は正しくないかもしれないが)を提示している。
現代の資本主義のシステムの中で、価値の源泉を工業、資源的価値から、
精神、意味的価値に転回することによって、現在の資本主義システムを規定している限界
(資源的限界、環境的限界、また北の貧困/南の貧困という問題、特に北の貧困という言葉で表される、
先進国に特有な相対的価値による生活水準の規定と、それに支えられた経済成長へのオブセッションという問題)
を超えることができるのではないかという見通しを述べている。
この北の貧困問題には、アナロジーとして全く適切ではないかもしれないが、
僕の中では、資本主義を押しすすめる嚆矢となった産業革命を支えた科学啓蒙思想が
経済成長主義にも大きな影響を与えているように感じられる。
野家啓一センセイが『科学の解釈学』の中で書いているように、
近代科学主義(ガリレオから始まり、クーンのパラダイム論、フッサールの生活世界論によって超越されようとされている科学に対する態度)が広まっていった原因はやはり
物質的恩恵を人間が科学によって得られた、それによって、欲望を刺激するstimulusが科学的「進歩」に伴って
コンスタントに作られるようになったことが大きいのではないかと思う。
科学の進歩は科学主義の中では「技術化可能性」、「精密化」、「被覆領域の拡大(応用範囲の拡大)」が、
「進歩」(よりベターな科学、世界になってるか)しているかどうかを決める価値基準として機能してきた。
こういった進歩のアナロジーが経済成長主義に影響を与えてきた(直接的に学問思想にという意味ではなくて、
社会への影響を通して)と考えられないことも無い。(ひょっとしたらすごく的外れかもしれないけど)
そう考えると、見田先生がいう北の貧困を解決するためには、やはり茂木先生あたりが
人間に立脚したクオリア主義とかでバーンと科学革命をしてくれるのが、
経済の根本解決の理論的な基盤として必要なんじゃないかー???とか思ってしまう。
なぜなら、ブランド価値(ってのも手前味噌でやだけど)等を含む、(見田先生の著書ではココア・パフであらわされる)
精神的、意味的価値の貨幣への変換を理論付けるには、やはりクオリアというか、
心脳問題というか、人間の意味の生成、価値の生成問題が解かれないことには、
その理論的基礎付けができていない気がするからだ。
(これは僕が学部からもやもや思ってたこと、やっと言語化できたぜ)
(ヴェブレンの文化的資本や、バタイユの根源価値といったものに、人文科学的な視点からの解答というか、
ヒントがあると思うので、ソコはまたちゃんと勉強しなきゃいけないんだけど。
今までは上の4行が言語化できてなかったせいでモチベーションが上がらなかった。。。見田先生に感謝)
(あと、価値が社会というか人間のインタラクションと共通了解から生まれるみたいな社会構成主義的な考え方も
あるんだろうけど、そこと、意味/精神的な価値というところの関係が、(宗教、カルトの研究なんかで知見が蓄積されてるのかもしれないけどつくづく不勉強、つんくの錬金術は多分その宗教的価値とビジネスの融合にある)
はっきりしないと使えない。)
ではもし、そういった科学革命を待つ間の準備期間に自分が生きているとしたら、
(茂木先生は東大講義で、今必要なのはダーウィン的統合と言っているから、
そのレベルのパラダイムシフトが起こってからも世の中に完全に浸透していくには相当の時間がかかると考えられる)
僕はその精神/意味的価値の貨幣への転換という仕事に、
自分の仕事からどのような貢献をしていったらよいのだろうか。
少なくとも、反応選択性に基づくオールドな脳科学を取り入れてマーケティングの進化と言っていては
全然だめだと思う。
この辺は電通の佐々木さんにいつか会って話をしなきゃいけないし、小林保彦先生なんかは既にある
ビジョン(生態学的なビジョンと本人が言っているモノ)をもっているっぽいから、
そういった人間と科学の融合ビジョンに基づくマーケティングの提案をしていかないといけないと思う。
ただ、世間というか、会社でバジェット管理ということを考えると、そういったロマンティックな議論は
好まれないということはMBAの授業に出てみて痛感した。
アレが至上だと思っては決していけない。アレはビジネスという論理にだけ適応できる極めて原始的な
サバイブのための道具なんだ。そう常に心に留めておかないと、素朴科学による実証主義はかなりアトラクティブだから
油断してるとからめとられる可能性も高い。
最終的に、ブランド価値とバジェット管理、ストックマーケットとの連動性がもうちょっと明らかになって、
ブランドの精神/意味的価値の貨幣への転換の部分が、なんとかつながるように会計との連携をとった
公式(コレが本当にできるようになるのは科学革命後なんだが…)というか、算定の方法を広めていく他ない。
しかし、やっぱり寄って立つ論理的根拠に欠ける。むぅ。
茂木先生も東大の講義で話していたように、
googleや、アドバンスド・チェスみたいな古いスタイルのAIと人間の新しい共存関係が、アメリカ的なabondanceを基にする
文脈で出てきてる事を考えると、こういった新しい資本主義みたいな議論自体が5年前、10年前位にはまだアクチュアリティがあったのかもしれないけど、
今ではかなりナイーブな議論になってしまっている可能性はある。
その辺は学者というコミュニティにいるより、会社コミュニティにいた方が変化は肌で感じやすいと思うから、
(場合によっては変化に圧倒されて本質を見失う可能性も十分あるから、常に第三者の人の情報に目をむけ、
離れたところから見ていくことが重要だけど)
今後すぐにまた新しい道が見つかるかもしれない。
グーグル化していく中で、鈴木健先生のマルコフ貨幣みたいな、経済に対する新しいアプローチ(内実全然知らんから勉強せなあかん)も出されていくから、
その辺もチェックしつつ、自分の方向性を修正しながら、あたらしい資本主義にブランドの精神/意味的価値の貨幣化作用という面から社会にコミットしていけたら、いい仕事だなと思う。
あとは、自分の能力的に今のところ結構制約が多いと思っていて、まず勉強量が少ないのが一番の問題なんだけど、
論理的というか数的解析能力が極端に低いことがカナリconstraintになっています。
茂木先生の言うとおりディラック方程式が解けないヤツがそういう議論をする土俵に登る資格が無いのかもしれないんだけど。
でもいーんだ。楽しいから…。しかしあぁ、悲しいなぁと思う。数的解析能力と論証能力が高かったらもうちょっと面白い議論に加われるのに…。←じゃあ努力しろよ。
とにかく、勉強。
あとは仕事で忙殺されても、こういうものの考え方を失わないように。
忘れないように。
勉強は終わらない。むしろすればするほど、効果は高く、開放的になっていく。
基本的には、この楽観的な考え方をベースにしていきたい。
全てを見たいという欲求はうすうすこの開放系の楽しみを知っていたから出たものだと、考えたい。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/01/post_8796.html
メジャーに対する取り組み方は、アメリカの大学生(僕が出会ってきたヒトに限る)たちの方が、
日本のそれより、好きだ。
みんな、自分のメジャーに対して、一家言持っている。
CSはコンピューターをつかっていろんなことをやらせる、魔物使い。
フィルムはヒストリー、サイエンス、テクノロジーを知った上でのアート表現。
こういう風に、今自分がやっていることは何が楽しくて、なんでコレをやっている
っていうのが、はっきりあるっていうのが、なんだか心地よい。
ウン。
建築とフィルムが、アートとサイエンスの融合地点としてつながっているというのは
興味深い。
前にもエイカワさんから、建築がどう広告とつながってるかを聞いたけど、
全く同じだ。
ロジックとアート、テクノロジーと人間の交差点に彼らも、そして僕もいる。
自分がそのクロッシングブリッジになれるという(すこし妄想の入った)自信をもって、
日夜インプットとアウトプットを続けていく…。
やっぱ、そういう学問、生き方が、好きだな。
今までのこと、知った上で、「さあ、どうするか?どう料理するか?一から作ってみるか?」
なんにでも通じるものかもしれないけど、
この姿勢は好きだ。
HIPHOPもサンプリングを取り入れた、音楽への姿勢は同じに思える。
それは渋谷系も同じで、今までの全ての音楽をリスペクトした上で、
自分の音をそれらを素材にして紡いでいく。それらのエディットの仕方で新しい世界が開けていく。
ディジタル・エラに顕著になってきたこの考え方、世代的なものかもしれないけど、僕は好きです。
オラ、強えヤツみるとワクワクしちまうんだ!
みたいな瞬間が好きです。
別に格闘技やってるわけじゃないんで、すげぇパンチもらってワクワクしちまう
わけではないんですが、
プレゼントか、音楽とか、企画とか、
自分が思いもしなかったすごいもん見ると、
なんか、圧倒されると共に、笑ってしまう。
ものすごいうまいプレゼン見たときとか、
超絶技巧の演奏を聴いたときとか、
え、コレやっちゃっていいの?うわー、やっちゃってるよ…!っていう企画みたときとか。
なんか、もう笑うしかない。
でもココロの中では、「なんで自分コレ思いつかなかったんだろう」って葛藤が既にあって、
プレゼンでも企画でもバラバラにして、どうなんってんだ?って考え始めてる自分がいたりして、
あの感じ、大好きです。
上昇志向というと、ガツガツしてる感じだけど、
単純にスゴイものにあこがれる。強いものを見て笑うしかない。
その感じが、自分を次のステップに押し上げてくれる気がするんですよね。
その感じを感じるために、常に上を目指すってのもあるんだろうな。
よし、がんばるぞ。
人の行動が正規分布に従うというのは、どういうことか?
心理学に統計学が導入された際の、考え方(主義)はどんなものであったか?
統計学が、経済学、心理学を初めとする19世紀の学問に与えた全体的影響とは?
ということを時間のあるときにしっかり確認しよう。
確かに統計ソフトを使うのは、車の運転と大して変わらない。
最初は、いちいち、
「えーっとこれがアクセルで、ブレーキで…」
と確認していても、1ヶ月もたてば、無意識にキーをまわして発進している。
ただ、統計をツールとして使いこなすためには、やはり理論的なバックグラウンドがある程度は
(ある程度だよ、ある程度、今の自分はゼロに近いからさ…)
必要なんじゃないかと思う。
統計的に正しいということが、どこまで正しさを保障していて、その前提は何なのか?
統計的な分析をすることで、何を対象に分析をしていて、何が言えて何が言えないのか。
そもそも、統計的分析をしなくても実証できることなのではないのか?どうしても必要なことか?
といったことは常に頭に入れて置かなければならないし、
例えば、カイ2乗検定について、Angelaに聞かれたように、
chi-square testのequation さえ分かっていれば、その場で即座に何が
問題になり、何が問題にならないかは分かるのだ。
カイ2乗がノンパラメトリック検定であるゆえんなんて式を見ればすぐに分かる。
ということなのだ。(ほらね、知識ゼロじゃん、そんな僕でも共分散構造分析ができてしまうのがSPSSのチカラであり怖さでもある…)
ベースの勉強、案外嫌いなのさ。まー、それが普通なのかもしれないけど、、、
でもやっぱし、ベースの勉強しなきゃ。
思うに自分はベースだけをどんどこ勉強できるタイプではないから、
応用問題に当たってって、その都度、ベースを確認するというスタイルがあっている。
と思う。これは、学部の4年間、無駄にイロイロと読書してみて分かった。
応用と結びつけてストーリー化しないと、それらは骨身になっていかないのだ…。
うふー。へへえ。
NPDプレゼンが終わった。
まあまあの出来だったと思う。
多分PPTの使い方だったら、クラスの中で負けはしないが、
それがコアの強みにはやはりなりえない。
コンセプトとコミュニケーション
やはりコレが一体になってないと、いいプレゼンは生まれない。
今回のクラスで思ったのは、
コンセプトとコミュニケーション両方に優れた製品を作るのは本当に難しいということ。
MBAは今までの学生ビジネスコンテストと違って社会人しかいない(ハズ)ので、
コレが実社会に出てのある程度のアベレージなのだろう。
コンセプトとして、あー、コレコレあったらいいなと思うものはいくつかあったし、
プレゼンで、おーすげー、これどうやってやってんだ???と思うものもいくつかあった。
でも、コンセプトが胸に響くプレゼンが出来ていたチームがあるかというと、ちょっとクビを傾げざるを得ない。
もっとこんな表現がいいのにとか、いろいろ考えた。
パワポに縛られてはいけなくて、あらゆるものを使って最高の表現をしなければいけない。
パワポとトークといういわゆる「プレゼン」のワクは外しも少ないし心地よいのだが、イマイチ心に残らない。
今日のスライドも、アニメーションとか、心に残るものはあったが、
コンセプトと一体になって、おぉ、欲しい!と思ったものはそこまで多くなかった。
今日のようなコンペ形式はなかなか特殊な状況なので、いつもこうとは限らないが…。
というわけで思ったこと。
■コンセプト
・まず、コンセプトありき。
なにはともあれ、コンセプトなんだよ。コミュニケーションがいくらよくたって、
コンセプトがクソじゃ何にもならない。実際の競争で飛びぬけてスゴイ製品というのを作るのは
難しいけれど、アイデア次第で既存リソースの使いまわしで思わぬ効果を得られることはある。
・Unmet Needsは存在する。
プロジェクターのヤツとか、結構気づかなかったコンセプトも沢山あった。
ブレインストーミングの時点で、手抜きせずだし尽くすことが大切。
結局評価されるのはプレゼンよりコンセプト。
プレゼンに時間をかけるのはいいけど、コンセプトがショボイと、結局肩透かしを食らった感じであまり印象は良くない。
おぉっと思うコンセプトでプレゼンがショボイのも考え物だけど。(なんかもったいない)
■コミュニケーション
・キレイさ
キレイなプレゼンは結構難しいなと思った。
センスも多分にあるのだけど、、、
3Dは労力が大きい割にはチャチくみえてしまうのが損だな。もうあれはセンスの世界。
ロレアルのイタリアチームみたいに、チョコットだけ使うのがまだいいのかも、来年どうなってるかはわかんないけどさ。
写真にフォトショでフィルターかけただけのやつをフェードで次々に見せてくやり方は、
アリ。あれは結構オシャレにまとまりそう…。
・自分事にできているかどうか
今回、全体を通じて感じたのが、コレ。
コンセプトが良くても、消費者視点からの問題解決という表現をみんな使わなすぎる。
プレゼンがカタログじゃ意味がない。
・伝えるべきコンセプトの絞込み
これも問題だった。1コンセプトとは言わないが、人間が覚えられることには限りがあるのだから、
一つのストーリー、ユーザーのエクスペリエンスの塊として、最も重要なコンセプトを伝えるべき。
(あたまの中に、一つの物語として格納してもらうことを心がけるべき:製品コンセプトだからね。
メディアの提案とか、ファイナンスとか、隙のなさが求められるものもあるし、伝え方はコンテンツによる)
・響くクリエイティブ
自分事化と同じ。クリエイティブの技術よりも、センス。いかに共感を呼べるか。
面白い、ワハハな感じなものは結局評価するときには心に残らない。
ワハハのつかみを持ちながらも、左脳で評価させる優れたコンセプト、右脳にひっかかるエモーショナルな表現。
この三位一体戦略が重要なんだな。
・神は細部に宿る
もう、これはね、自己満って大事だなと思った。
やっぱり、真っ白なシャツにスパゲッティのシミがあると、たとえ直径1mmでも目立つし、
げんなりしてデート止めたくなるのと一緒で、
プレゼンを作りこんでいればいるほど、カンペキさが全体の印象を左右するようになってくる。
本当に、目が行ってしまうね、失敗のところに。
カンペキを求めるとEfficiencyは下がるかもしれないが、全体の印象を考えたら、最後までこだわりぬくべし。
PPTは再現性に不安が残るのでその解決策も用意するべし。
Who cares?は禁句!! コミュニケーションを仕事にするなら細部に気が配れないと絶対ダメ。
人のココロを相手にしてんだから。どんぶり勘定で金作ってる仕事じゃないんだよ。
この辺がアメリカ→金融、ネット(とにかくやってみる、儲かることだけ保障しておいて細部はアトでちょこちょこ直してけばいいや)
日本→アニメ等コンテンツ、ハイテク製品(こだわり、自己満としかとれないような細部への気配り、でもそれが結果的に大きな差別化の要因になる。デザインの重要性とかもこの辺から出てきている。神は細部に宿る)
という違いになっているのかも知れないね。アハハ。
最後でチームメイトに妥協したオレの負けだった。自分のことは責任を持ってやらないと後悔する。